弁慶
宣伝手法のせいなのか、主役は遮那王だと思って見に行って「あれ、違うじゃん」と思った人がほとんどだったようですね。わしは幸い、ちらりと弁慶が主役と聞いてたし、前宣伝なんてのも全く見てなかったから、かなりすんなり弁慶が主役だった。劇画的手法でもって現れた登場のシーンだったけど、主役宣告は役者の良さもあいまって充分でしょう。猪突猛進というか、乱暴者の典型的な純粋さと単純さでもって都に戻った弁慶、恵仁上人に喜んでもらいたくて報告に行くあたりが実にかわいらしい。愛される主役はこうでなきゃ。
「偽りの鬼を斬って光明を得よ」
というお告げの意味が、いろいろと想像させるところがまた面白いね。業を鬼と見るならば、人としての業を背負い続ける弁慶が斬るべきだったのは、「五條の鬼を斬りたい」という希みだったとも思える。そのへん、遮那王と対称的に人間的なというか、人間臭いところがとてもよくでてる。つーか、人間というよりはより本能的な獣に近い。そして、それに振り回されている己に苦悩する姿がまた人間的だった。それにしても、困ったことに言葉が続かないわ。このての主役はわし的ツボなんだけど、「いるだけでいいよ、もう!」ていうくらい言葉をなくしてしまう。…なので、作品としての弁慶の描かれ方について、ちょっと書こうかな。すばらしいシーンはいくつもあるけど、わしがいちばん気に入ったのは、逢魔ヶ森を魔を払いながら突き進むシーン。「やっぱりこの監督、マニア!」と思ったわ、あのこだわり具合。あのスピード感とBGMのマッチング、森に入るときに刀印をきる弁慶の迫力から森の奥で迷いだす様子から、「こうでなきゃダメなんだ」っていうこだわりがひびいてくる。ところで、残念なのは、この物語の一番重要な焼身成仏を望む僧とのシーンだが。役者も映像もよく、本当に胸を打つ素晴らしいシーンとはいうまでもない。が。しかしだ。その後が何だかちょっと不満だったぞ。京へ戻らず再び遮那王と見える気になった、その弁慶の気持ちの変化の表現があいまいだったように思う。つまり一言に尽きるが、説得力がない。役者の演技の問題ではなく、これは監督の力不足の結果だ。もちろん、いろいろに想像することはできるんだけれども、もう少し何かあってもいいんじゃないすか?あんないいシーンなのに。
不動明王・弁慶
こういうとこ読んでるようなマニアックな方はすでにご存知かもしんないけど、解説から。不動明王は密教の最高仏・大日如来の化身のひとつで、ようするに仏の教えを「言って判らない奴」に、威力でおさえつけるときのためのお姿。弁慶は「坊主の仕事はこれが最後だ」と赤ちゃんを「救った」あと、明王へと変化して遮那王に仏罰をあてるために五条大橋へ向うわけだ。そのときに鎧を身に纏うんだけど、あれは神がかるためにカタチから入るという昔ながらの儀式のひとつと理解した。いや、遮那王の腕のすごさに多少なり身を守ろうと思っただけかも知らんけど。炎を背中に、右手に剣、左手に数珠(本当は「けんさく」というヒモみたいなやつを持つ)、まさに不動明王の威姿!きわめつけが遮那王があらわれたときで、次のカットで見開いた目がアップになったときの顔が、もうほんとうに不動明王と同じ顔をしてた!ちょっとあれにはびっくりしたな。また、あんな顔になれる役者もそういないと思うんで、隆さんはまさに、石井監督が求めた弁慶そのものだったんだと思う。
隆大介
実は今回初めて知った役者さんで、一発で超がつくほどのお気に入りになってしまった!声から体から顔から動きから演技から、どこをとっても文句なし!久々の大ヒットで、隆さんが弁慶でなかったらこんなにはまんなかったかも。ていうか、いい映画にならなかったかもね。わし的には隆といえば慶一郎だったんだけど、これから当分は大介だわ。近いうちに黒沢の「影武者」もレンタルしてこよっと。しっかし、いい声してたなぁ。真言陀羅尼をとなえる声がたまらんです。真言陀羅尼ってそうそうかっこよく言えるもんじゃない。この人、坊主向きの喉なんじゃないか?わりといろんな種類の陀羅尼があったから、覚えるためにかなり何回も実際に声に出してとなえ続けたに違いない。密教というとどうしても、映画「孔雀王」の阿部寛とか三上博と比べてしまうが、比べちゃいけねぇって感じだ。声の重みの差がありすぎる。そういえば、坊主がカラオケうまいってのはあながちただの噂でもないらしい。中身は汚くても声明はきれいだからな。ま、汚い声の坊主ってのもいるけど。