その他の人々
鉄吉
もったいない!って感じですね。役者もこんなにいいのに、活かされてなくってかわいそうだった。プログラムのインタビューとか見てると、監督の無宿人達への思いは並々ならぬものがあったようで、かえってそれがあだとなった印象です。それを考えると監督にとっては表現しきれなかったという意味で、時間的に短すぎる映画だったのかもしれないけど、切るべきところはすっぱりと切らなきゃ、蛇足にしかならないよね。わし的には、いっそ無宿人街へ検非違使が乗り込んできたとき死んでればよかったな、なんて。ちょっと思うよ。
監督が思い入れるだけあって、鉄吉という存在自体にはものすごく面白みがある。刀鍛冶として立派にやってた彼だけど、造るものは殺傷をしないはずの坊主の槍。刀とか造るくせに変に潔癖なんだね。でも職人らしくて、リアリティがある。刀は人を斬るための道具だから、いい仕事をするとそれはどうしても、人を殺すためにもっとも有効な出来になってしまう。そんなのはご免だけど、職人としての本能が、より良い刀を造るためにと動いてしまう。それが業であり、「刀への執着」という名の鉄吉の鬼の部分だ。この辺の表現はわりかし良かったと思うけど、でもやっぱり最後までいてもいなくてもって感じだね。とくにラストシーンなんかは、「もすごく出来わるっ!」と思ってる。
芥子丸
「美少年の影武者」という設定で、なるほど、遮那王が最後に死ぬ落ちか。と判ってしまいましたが、いや、美少年でしたね!(笑)。各所で、ラスト台詞のあるシーンまで女の子と思ってた人が多かったようですが、一緒に観にいった某さんも多分にもれなかったようです。
わたしといえば驚いたのはその後で、どこかのインタヴュー記事に載ってた細山田くんのスチルを見たら、どこから見てもふつうの男の子!? ええ!? あの映画の中の妖しい美少年ぷりはいったい???…という感じで。そう、好少年には変わりないんですが、あの印象の変化というものがすごかったですね。あれは撮り方の腕と捉えたい。石井監督、何者だろうか。
恵仁上人
この役を演じた方も監督が「この人でなければ」と言い落とした人でしたね。あの静かな迫力はあまりふつうにできることではないです。指先まで気を張ることをよく知っている舞踏家ならではの体の表現。監督が、「ほら、いいでしょう?すごいでしょう?」と喜んでみせているのが判ります。魂を体で表現することに長けた優れた舞踏家ならではの、あの存在感。どこか超越したオーラが、精神を鍛練した僧侶と魂を鍛練した芸術家には通じるところがあるのかもしれません。ことに褒め称えるべきシーンは、静かなる上人が刀剣をぬきはなち、うかれるふたりの鬼をいさめるところ。あの息を飲む迫力はさすがの遮那王もたじたじというのがよく判ります。
さて、恵仁上人という役柄は、実際そこにある「存在」というものではなく象徴そのものであったかと思う。存在としてのインパクトがあるのに生きた人間としての希薄さは出家した者の独特の雰囲気ではないだろうか。「仏は救う」というけども、実際彼らが救うものはなにもない。「草木を愛するただの坊主」。「生き仏」といわれる恵仁上人はまさに仏であったかと。末法の世界で救いを求める人々(遮那王もそのひとりといえるかもしれない)に、手を差し伸べることはしても、その手に「何も持たない人」なのです。それは、無力であるという意味ではないけれども、ある意味においては無力であること。より真理に近い宗教観を、監督はお持ちのようです。